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「The Okura Tokyo (オークラ東京)」とは?
世界をもてなすために、日本らしい格式とモダンな快適さを融和したグランドホテルを作りたい。
1962年、そんな強い想いを原点として大倉喜七郎男爵が創業した「ホテルオークラ東京」。
2019年9月12日、その意思を継いで生まれたのが、現在の「The Okura Tokyo (オークラ東京)」です。
すべてに共通しているのは、優雅さを追求する「日本の美」と、一人ひとりのゲストにきめ細かく気遣いする「日本の心」。
また、「The Okura Tokyo (オークラ東京)」は「日本のホテル御三家」のひとつとしても知られています。
「御三家」とは、帝国ホテル、ホテルオークラ東京(現:The Okura Tokyo)、ホテルニューオータニのこと。
かつて東京サミットの宮中晩餐会におけるケータリングや、国賓の宿泊施設として外務省が指定したことからこう呼ばれるようになりました。
2023年、「フォーブス・トラベルガイド」の最高評価の「5つ星」を獲得した、「The Okura Tokyo (オークラ東京)」。
今回は、そんな日本のホテル文化を牽引してきた「御三家」のひとつ、「The Okura Tokyo (オークラ東京)」の深い歴史や歩みをご紹介します!
【The Okura Tokyo (オークラ東京)(旧:ホテルオークラ東京)の歴史】
創業者・社長・建築家それぞれが抱く想い
「ホテルオークラ東京」創業者は、実業家の大倉 喜七郎。
彼の想いは「世界からの高評価をもらえる国際迎賓ホテル」に集約。
明治時代を代表する実業家といえば、かの有名な大倉財閥の大倉喜八郎。
今もなお残る、大成建設、東京経済大学、帝国ホテル等も含め国内外に多くの事業を展開し、日本近代化の礎を築いた名高い人物です。
そんな壮大な志を継承したのが、息子の大倉喜七郎でした。
喜七郎は、多くのノーベル賞受賞者を輩出している名門ケンブリッジ大学で国際感覚を養い、1922年に父の跡を継ぎ帝国ホテル会長に就任。
しかし戦後、GHQの政策により財閥解体という歴史の荒波に飲み込まれ、その職を解かれることとなりました。
帝国ホテルへの復帰も叶わぬ状況にありながら、喜七郎のホテル経営に対する情熱が薄れることはありませんでした。
「それなら、帝国ホテルに負けない、世界的に高く評価されるような国際迎賓ホテルをつくればいい。」という強い想いを抱きます。
そんな夢の舞台に選ばれたのが、現在の港区虎ノ門。
日本の伝統と文化、現代性を融合させた迎賓館「ホテルオークラ東京」が誕生します。
「ホテルオークラ東京」社長は、野田 岩次郎。
彼が掲げた今も息づく理念「親切と和」
ホテル建設にあたり、喜七郎が社長として白羽の矢を立てたのは、海外でのビジネス経験を持ち、国際感覚に優れた野田岩次郎でした。
実は当時、岩次郎はGHQの下で財閥解体に携わっており、いわば大倉家にとっては「宿敵」とも言える立場。
しかし、喜七郎は彼の卓越した才能に惚れ込み、自ら構想するホテルの新社長を依頼しました。
世界最高のホテルを目指す上で、何よりも大切にすべき信念として岩次郎が掲げた企業理念は「親切と和」です。
お客様に、従業員に、そして物にまで「親切」であること。
人と人が繋がる「和」、もてなしの「和」、しつらえの「和」。
お客様一人ひとりに丁寧に向き合い、控えめでありながらも真心を尽くす。
そんな謙虚でお客様ファーストであるおもてなしの心はスタッフ全員に浸透し、ホテル全体に温かな空気を生み出しました。
「親切と和」の心は、今なお「The Okura Tokyo (オークラ東京)」の隅々にまで息づき、日本が世界に誇るおもてなしの本質として、大切に受け継がれています。
「ホテルオークラ東京」建築家は「設計委員会」。
谷口 吉郎らが作る日本が誇るモダニズム。
1962年の創業に向けて発足した「設計委員会」。
その中心にいたのは、東宮御所、帝国劇場の設計者である20世紀の日本を代表する建築家・谷口吉郎でした。
彼が指揮を執り、5人の建築家たちが情熱を注いだ空間は、まさに日本が誇る美意識の結晶。
モダニズムの建築手法を測りながら、和の感覚を丁寧に生かす彼の作風は、まさにホテルの理念「親切と和」そのものだったのです。
ここで、当時の設計を担った5人の建築家と、それぞれの主な担当箇所をご紹介します。
1人目:谷口吉郎(ロビー、オーキッドルーム、オーキッドバーを担当)
2人目:小坂秀雄(郵政省建築部長/外観、平安の間、千歳の間を担当)
3人目:清水一(大成建設設計部長/和風宿泊室を担当)
4人目:伊藤喜三郎(伊藤建築研究所所長/中小宴会場を担当)
5人目:岩間旭(三菱地所建築部長)
どの建築家も現在の日本の美を手がけた名高い人物です。
特に、本館メインロビーから500の客室に至るまでの細部に至る意匠は「一万八千坪の芸術」と呼ばれているだとか。
この守り抜かれた芸術の全貌については、後ほど詳しく紐解いていきましょう。
「The Okura Tokyo (オークラ東京)」が目指すもの
「ホテルオークラ東京」時代。世界をもてなす「日本の伝統美」を実現。
創業後、国内外の王族や国家元首、文化人を迎え、国際会議の迎賓館となり、「日本の伝統美」の象徴的な場所として高く評価されました。
1962年10月、「ホテルオークラ東京」に初めて滞在した世界の賓客は、メキシコのマテオス大統領です。
また、1964年の東京オリンピックの際には国内外からの多くの来賓を迎え入れます。
同年、日本で開催されたIMF(国際通貨基金)の総会の際にも、大広間「平安の間」が会場に選ばれ、日本を代表する国際的なホテルとしての地位を確立。
和の要素を上手く取り入れた内装や庭園は世界から称賛され、オバマ大統領などアメリカの歴代大統領やイギリスのダイアナ妃、マイケル・ジャクソンやジョン・レノンなど、世界の著名人が多く宿泊されました。
日本文化への配慮やおもてなしの心を大切にし、「世界の賓客を満足させる」という創業者・大倉 喜七郎の夢はこうして現実になったのです。
2019年、The Okura Tokyo (オークラ東京)の新たな幕開け
「ホテルオークラ東京」創業から50年を経て、本館の再建築の話が2000年初頭に持ち上がり、2011年の東日本大地震の後には建て替えの話が本格化。
そして創業から53年の2015年、老朽化に伴う本館の建て替えが発表されると、世界中のファンから惜しむ声が次々と寄せられました。
SNSやメディアでは、「#SaveTheOkura」のムーブメントが広がり、保存を訴える約6000もの署名が集められたのは有名なエピソードです。
イタリアのブランド「ボッテガ・ヴェネタ」のクリエイティブディレクターを務めるトーマス・マイヤーは、雑誌でのインタビューで「もしホテルオークラがなくなってしまったら私たちは東京にまで旅をする理由がなくなる」とさえも語り始めました。
それほどまで、「ホテルオークラ」は多くの人々の心に残る特別な場所でした。
その声を真摯に受け止めつつも、ホテル側が決断したのは「意匠をできる限り継承しながら、現代の機能と融合させる」という新しい挑戦でした。
その重責を担ったのは、かつての設計者・谷口吉郎の長男であり、世界的建築家の谷口吉生。
彼は閉館したばかりの本館ロビーに3日間、ただ一人で座り続け、そこにある空気感までをも自身に刻み込んだといいます。
父が遺した「一万八千坪の芸術」を、次世代へどう繋ぐのか。
本館は2015年8月をもって一度幕を閉じ、新しいオークラの物語が再び動き出しました。
変わらないように変わる。現在のホテルから世界へ。
4年の歳月をかけて2019年9月に開業した新生「The Okura Tokyo(オークラ東京)」は、41階建ての高層棟「オークラ プレステージタワー」と17階建ての「オークラ ヘリテージウイング」の2棟からなります。
「フォーブス・トラベルガイド」の格付けを獲得している日本国内の中で、客室数が508室という最も多いラグジュアリーホテルです。
谷口吉生は、素材・光・プロモーションの絶妙な組み合わせによって生まれる「オークラらしさ」を丹念に継承し、ロビーの空気感そのものを現代に再構築しました。
吉生が挑んだのは、単なる再構築ではありません。
現代の建築法規の違いなど困難な問題をクリアし、復元エリアと新設エリアに「シームレスな連続性」を持たせるという、極めて高度な建築的挑戦でもありました。
新たに設計された「オークラスクエア」は、大倉集古館とホテル棟を結ぶ六角形の水盤を中心に、人と建築と都市が有機的につながる広場となりました。
大倉集古館の窓にも用いられ、長寿や吉祥のシンボルでもある「亀甲文(きっこうもん)」。
このオークラブランドを象徴する美しい正六角形のモチーフは、水盤の形や、新しく建てられた棟のそこかしこに現れています。
「変わらないように、変わる」
新生オークラは、単なる宿泊施設としてだけでなく、東京・虎ノ門という都市に開かれた「新たな迎賓の軸」として、世界を魅了し続けています。